記号

 

 部屋の掃除をした。気が進まない作業ではあるが七割は済んだ。残りの三割は永遠に完結することのない領域であろう。友人がTwitterで「掃除しなきゃ」と呟くのを月に一回はみているような気がする。彼女も同じく未完結の三割に対し毎月自分を鼓舞する声をあげているのだろうか。その点彼女は立派である。私は黙殺する。

 

 

 掃除の最中に大学のある授業でのルーズリーフを見つけた。その授業は大手広告代理店に勤めていた先生によるものであった。内容はとても興味深く、意欲的にうけていたものの毎授業後のアセスメントペーパーによる私のラブコールはなかなか届かず少し苦い思い出である。

 

 

 その授業のある回を受けている時、私は村上春樹の「スプートニクの恋人」という本を思い出していた。それは私にとって初めて読む村上春樹作品だった。物語の中で主人公の女の子が記号と象徴の違いについて周りの人々に問いかける。そして記号は双方向、象徴は一方向であるというひとつの答えを出すのだ。授業のルーズリーフを見返すとそんな風に思い出したことを脇にメモしていた。

 

 

  ところで双方向と一方向というのは全く違うものである。二種類に分けられたものではなく対極にあるものだ。双方向と一方向と考えるにあたって私は矢印のイメージを大切にしたい。

双という字には二というイメージを抱くが、双方向という言葉の場合矢印は対の二本だけである必要はないと私は考える。一方向はどちらか一方からのみ矢印が伸びている。しかし双方向とはお互いから多数の矢印、つまりいくつものアピールや表現を向こう側へと飛ばすべきなのである。

 

 

 このブログを書くにあたって私は絶えず矢印を飛ばしていきたい。それが届かずとも。目に留まらずとも。

 

私が矢印を飛ばさねば何も始まらない